倒産する出版社に就職する方法・第73回
2019年12月9日夕刻、私は阿佐ヶ谷の路上を小走りに駅へと急いでいた。背筋から全身へと広がる悪寒を感じながら、一刻も早く暖かな駅に駆け込もうとしたのだ。しかし、一歩一歩刻むたびに、悪寒も少しずつひどさを増しているような気がしてならない。
「やっぱり来たか……。やっぱり来たか……」
私は南阿佐ヶ谷駅の地下鉄へと続く階段を、そうつぶやきながら駆け足でくだった。
すでに終わりが始まっていた。
いや、始まりが終わろうとしていたのか。
そのさらに3日前の夕刻。数日苦しんだインフルエンザの高熱がようやく終息に向かっていた小学生の長男は2階にあるリビングのソファーに横になっていた。
「1階の寝室のほうがよく眠れるだろう?」
体調を気遣ったように聞かせたかったが、私の本心はもちろん別のところにあった。そんなことはすでに見抜いているのだろう、妻はこう言った。
「一人じゃ寂しいんだって。だから、ここにいていいって言ったのよ」
「……なら、いいよ」
慈愛に満ちた表情でそう言ったが、私はさっきからたまに鳴り響くケーン、ケーンという犬の鳴き声に似た咳に脅かされていた。あの咳一回分に、いったいどのくらいの数のインフルエンザウイルスが含まれているのか。そして、同じ空間内にこんなにも近い距離でいることはどのくらい危険なことなのだろうか。
「寝室のほうが静かでいいんじゃないのか……」
未練がましくそんなことを言いながら、仕方ない、せめて咳は背中で受けることにしよう。そう考えた私はフロアの地べたにそのまま座りこみ、ソファーにもたれかかるかたちで本を読み始めた。
時折響くケーン、ケーンという異音も気にならなくなるくらい本に集中し始めたころ。
ヘックジュン!!!
韓流スターみたいな異音が聴こえたかと思うと、私の後頭部全体を生暖かなスプラッシュが包み込んだ。その中心点、私のつむじのあたりには、重量感ある粘性の高い物質がこびりついている。
「うわッ、キッタねえ!」
運よく自らはスプラッシュ弾を回避した次男が、直撃をくらった私を囃し立てる。
「うわ~、それ、ヤバいよ」
つむじ付近の髪の毛と絡み合った粘性物質をティッシュでこそぎとりながら、私は考える。この痰10グラム中にいったいどのくらいの数のインフルエンザウイルスが含まれているのか。それはヤクルト1本分に含まれているシロタ株とどっちが多いんだろう。
「ヤッベェ。それ、絶対ヤッベェ」
次男はずいぶんと嬉しそうだ。対して、長男は生気のない目をぼんやり宙に漂わせているだけだ。心神耗弱状態。罪には問えまい。
「……」
私は黙ったまま、除菌用ウエットティッシュでつむじを拭く。徹底的につむじを拭く。インフルエンザウイルスにつむじから脳内に侵入する力があるのかどうか、私は知らない。
インフルエンザウイルスの潜伏期間は1~2日だという。
だとすれば、南阿佐ヶ谷駅の階段をもう少し速いスピードでくだっていたら、私はインフルエンザウイルスから逃げきれたのだろうか。
12月9日、帰宅後の晩、私はひどい悪寒に襲われていた。
とにかくただひたすらに寒いのだ。シャツを3枚ほど重ね着し、その上にセーターを着こんで布団にくるまっているのに、寒くて寒くて仕方がない。頭痛だとか関節痛とかだるさとか倦怠感とか、あらゆる諸症状を悪寒が上書きする。ただ寒い。
「ヤッベェ。これ、絶対ヤッベェ。これ、絶対ヤッベェ」
私は布団の中でうわ言のようにそう繰り返していた。
こうしてインフルエンザとの闘いは幕を開けた。