倒産する出版社に就職する方法・第40回
「じゃあ、出ていけ、なんてことにならないんでしょうね?」と妻。
「心配ないさ。借地借家法では借り手の権利が手厚く保護されているから、突然出ていけなんてことにはならないよ」と、ハウツー本に記されているようなわかりやすいQ&Aを行なう私。
家賃をめぐる裁判所での調停では、「調停委員」という人があいだに入って交渉が行なわれることになります。家賃問題の調停委員は不動産鑑定士が就くことが多く、なんとか調停をまとめようと、貸し主(大家)側へ譲歩を迫ることが多いのです。
――というような編集作業中に仕入れた知識を披露する私。
「ふーん」
冷然と私を見やる妻。
この目――。
この目、どこかで見たことあるなあと思ったら、小学生のときに友人と児童館で遊んでいたら突然やってきて脅かしていった中学生と同じ目です。
「そう。とにかく私たちに迷惑にならないようにやってね」と妻。
「……も、もちろん」
こうして家族のみんなからも温かい励ましを背に受けて、力強く家賃下げ交渉の準備を進めていく私。
さあ書類は書き上げました。
あとは簡易裁判所へ出向いて、窓口に提出するだけです。
なお、簡易裁判所は土日休みのため、平日に出向かねばなりません。
仕事が立て込み、平日に簡易裁判所に行くタイミングを逸して数日、ケータイの呼び出し音が鳴り、画面には見たことのあるようなないような電話番号が表示されています。
この番号って誰のだったっけ?
「××不動産の〇〇です。先日おっしゃっていた調停申し立ての件なのですが、まだ手続きはされていませんか?」
……前回のやりとりでは調停申し立てになんの反応も示さなかった不動産屋がどういうつもりなのでしょうか。
「いえ、まだですが、書類はすでに準備できていますよ」
「その件なのですが、もう一度大家さんにかけあってみますので、調停申し立てはもう少しお待ちいただけないでしょうか」
おお、あれほどアゲインストだった風向きがなんだか変わりつつあるようです。
「いや、もう調停申し立ては決めたことなんで……」
「いえいえ、私のほうでも大家さんになんとかならないか交渉してみますので、少しだけ時間をください」
ああ、どうやら確実に風向きが変わりました。
「あと、先日お送りいただいたというお手紙が書類に紛れて見つかったのです。これも大家さんに見てもらって交渉しますので、調停はお待ちいただくということで……」
「この際、調停したほうがお互いにすっきりするし、面倒じゃなくていいんじゃないですか?」
これまでにない状況の変化を感じて、急に嗜虐性を露わにするボク。
「いえ、そんなにお時間はいただきませんから、もう一度だけ交渉させてください」
不動産屋の社内で何があったかはわかりませんが、もはや立場は完全にひっくり返りました。不動産屋の社内でどんな話し合いがなされ、どんな指示が出されたかわかりませんが、私に調停申し立てを思いとどまらせようと必死なのです。
「人にはそれぞれ立場というものがありますからね。そこまで言われたら仕方ありません。どうぞもう一度、大家さんと交渉してみてください」
私は自慢のカイゼル髭を撫でながら鷹揚に宣告しました。
(つづく)